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宇宙の仕事から会津の伝統工芸へ。ローカルな会津発の良さを“和ウトドア”製品として届ける。(株式会社関美工堂 関 昌邦さん)

宇宙の仕事から会津の伝統工芸へ。ローカルな会津発の良さを“和ウトドア”製品として届ける。

関 昌邦(せきまさくに)

昭和42年12月8日生まれ。会津若松市出身。宇宙開発事業団を経て、2003年に父親の経営する株式会社関美工堂に入社、2007年より代表取締役社長として就任。昭和21年創業の株式会社関美工堂は、世界で初めて、表彰で贈られる楯の商品開発を行った。3代目の関昌邦さんは、会津塗を現代のライフスタイルに合わせた製品を開発して国内外に発信している。

【目次】

エピソード1 小学生からの夢が叶った瞬間。文系大卒で宇宙開発事業団のエンジニアへ

宇宙への憧れからNASAに入りたいと思っていた小学生時代。大学では文系学部に進むが、人工衛星のビジネスを経験したのち、子どもの頃からの憧れであった宇宙開発事業団へ。

エピソード2 父が倒れたことをきっかけに福島へ。新しい“和ウトドア”製品の開発。

父親が倒れたことをきっかけに会津に戻り、父の会社である株式会社関美工堂へ入社。その後代表となり、和とアウトドアを融合した新しい商品開発を行う。

エピソード3 東京にはない幸せ。復興の視点ではなく、会津の良さをいかに伝えるか。

 都市部にはないローカルな会津らしさを、和ウトドア漆器であるNODATE (ノダテ)シリーズで広めていく。

 

 

小学生からの夢が叶った瞬間。文系大卒で宇宙開発事業へ

会津若松市に生まれて、現在は本社工場となっている敷地内で0歳から育ちました。18歳のときに会津を離れました。

子どもの頃はいたずらっこで、教師からチョークを投げつけられるような子でした。ものづくりや美術は好きで、成績もほどほどに良かった記憶があります。

中学生までは、科学系が大好きで、宇宙に憧れ、米国の宇宙開発機関・NASAのエンジニアになりたいなんて壮大な夢を見ていました。高校時代には勉強よりも遊びに夢中で見た目は不良のようになっていました。理系の教師と折り合いが悪く成績も落ちる中、NASAに入ることなど夢のまた夢。現実を悟り、大学は文系の法学部に進みました。大学ではスキーに明け暮れ、成績優秀でもなかった。就職活動にあたっては、ハイリスク・ハイリターンな会社を目指さないと人並み以上の社会人生活を送れないと危機感を抱いていて、将来可能性が広がる業界だと考えた通信系の会社を受けまくりました。中でも人工衛星を使った通信・放送ビジネスは始まったばかりでしたので、おもしろい人生を送れるのではと期待しつつ、どうしても入りたい気持ちが伝わったのか、「新しい風を入れる」とか言われつつ何とか採用頂きました。

今振り返っても、その会社で働くことができたことはとても幸運だったし素晴らしい経験でした。当初は企画部に配属され、電気通信事業法や放送法を叩きこまれ、監督官庁である郵政省(現総務省)への許認可申請、法整備の陳情、新事業の計画を練るような役割を任されました。当時は存在していなかったデジタル多チャンネル放送事業(現スカパー!)の立ち上げにも携わりました。

その後は、世の中で生きるための基本は営業だと感じるようになり、営業への異動願いを出し続け、官庁営業部門に配属され、厳しい営業現場を経験しました。

当時、1990年代中頃は、宇宙開発事業団(以下NASDA。現在の宇宙航空研究開発機構、 JAXA)が国産ロケットの打ち上げに失敗するなどしていて、税金で作った人工衛星やロケットが宇宙の藻屑に消えることに批判が集まっていました。また遠すぎる将来の研究開発に税金を使うことの意義も問われ始めていました。そこで、民業ではリスクを持ちきれない程度の近い将来を担う先端技術の開発の必要性が生じ、その新組織のためのエンジニアとして民間衛星事業者から人を集める話があり、NASDAに出向くことになりました。

文系卒のエンジニアは初だったようです。新組織では人工衛星のアプリケーション開発をしていました。小学生時代の憧れであったNASAや日本の宇宙開発の主軸・NASDA。エンジニアとして一つの役割を担えることになるとは、本当に夢が叶った瞬間でした。

 

 

 

父が倒れたことをきっかけに福島へ。和のスタイルのアウトドア、“和ウトドア”製品の開発へ。

そんな中で父親が倒れました。0歳の時から父親が仕事をしている様子や業界の良い時代を見てきましたので、業界の売上が数十年に亘って少しずつ下がっている現実がたまらなくて、自らの意思で帰ってきました。

帰ってみると、漆器業界は最大の時(平成元年)の1/4の売り上げという惨状でした。弊社も良い時代は従業員100名を抱えていましたが、戻ってきた時は35名程度。50歳前後の男性しかいない従業員構成で、このままでは会社の将来が危ういと感じ、様々な改革に臨みましたが容易に業績は回復せず、リストラを断行しながらも若手を採用し、現在は20名弱の従業員で組織しています。

弊社は創業当初、世界で初めて「楯」を商品化しました。まだ受賞者に授与するアイテムとしてメダルかカップしかない時代に、創業者の祖父が会津の地場産業で作れる表彰記念品を作れないかということで木製の板に漆塗と蒔絵を施した「楯」を生み出し、新しい市場を築きました。しかし、現在は過当競争にまみれ、また商品が受賞者の手元に届くまでには多くの中間流通が入る。製品を選んで購入する、賞を授与する立場の方々に、弊社の製品が喜んでもらえているのかが分からないという、もどかしい立場にあります。

授与者が与えたいものと受賞者が欲しいものとにギャップがあるという点も、マーケティングに基づく製品開発を困難にしています。結婚式の引出物にも似た要素がありますね。ホスト側とゲスト側の思いにギャップが生じ、そこを埋める企画としてカタログギフトが生まれたのですが、便利である一方、一体誰の結婚式でもらったのか分からなくなってしまって、新郎新婦の思い出と連動して手元に残るということはありません。便利にしすぎた結果、寂しい状況だなとも感じています。 

会社の本業である表彰記念品の市場改革や時代を変える新商品開発が安穏として進まぬ中、また会津塗の市場が右肩下がりに低迷を続ける中、会津塗の原点としての手仕事に的を絞ったものづくりコミュニティを盛り上げることができたら、地域の魅力を再構築できるのではないかと思い始めました。

そして他社と共同で新しいブランド・BITOWAを立ち上げ、国内や海外の展示会等に出展も数多く経験しました。

様々な市場のニーズを拾い集める中、また自分自身の日々の暮らしの中で、実はアウトドアの市場が漆器に向いている、ということに気づきました。家族で野外フェス等に参加するのですが、アウトドアショップで手に入るものは金属やプラスチックの製品ばかり。自然の中で使う道具が工業的な製品に囲まれているのが残念だと感じ始めていました。

昔のテントには、焚き火の火の粉が飛んでも耐えられる素材としてコットンが使われていました。コットンは水に濡れたらビシャビシャになるイメージがありますが、実は濡れても傾斜があれば水は流れていきます。でも水を含みやすい素材である分、撤収時はかなり重くて辛い。一方、今のテントは、水を通さない軽い化学繊維に変わっていますが、火の粉には弱い。どの素材にもメリット・デメリットがある。メリット・デメリットの隙間で特定の価値を訴求できればアウトドア製品の中でもニッチな需要を集められるのではないかと思いました。

漆器は軽く、持ち運びが頻繁なアウトドアで使う素材として良い。大腸菌やブドウ球菌を死滅させるほどの殺菌作用もあり、強酸にも強アルカリにも耐性がある。氷点下でも肌に氷着しない。金属や樹脂程ではないにしても壊れにくい。そして金継ぎ等補修技術の歴史も深い。天然素材でこれだけのメリットに溢れているのを現代のマーケットはどれだけ認識しているのか。市場にないならばやってみようと思い立って木製・漆塗りのマグを作ったところ、さまざまな市場の好評を得ることができました。

これがNODATE Mug(ノダテマグ)シリーズのはじまりです。

和のスタイルのアウトドア、“和ウトドア”というとちょっとあれですが、まぁそういう概念です。

現在、アウトドアでの過ごし方は、これまでの椅子にテーブルというスタイルから、焚き火を囲み大地に近い高さでくつろぐロースタイルに変わってきています。花見は日本人のほとんどが経験する古来続く文化ですが、不便を分かりながらブルーシート敷きつめて、いつ倒れるか分からない缶ビールを膝元に据えながら大地に腰を降ろしています。そこで、一昔前には一家団欒の象徴であった「ちゃぶ台」をアウトドアユース向けにデザインしたのがNODATE Chabuです。ノスタルジックなアイテムを現代的なアレンジで再生し、素材は軽さに拘り、手塗の拭き漆で仕上げます。折畳めば半円になり、5cm程度の厚さに収まります。

地域の技や受け継がれてきたものを礎に、次世代にバトンタッチできる商品にしたいと思いながら商品構成を増やしてきました。

iPhoneカバーは、日々の暮らしの中で、頻繁に漆に触れて欲しいという想いから作りました。携帯電話は1日に何回も触るものなので、漆が手に触れた時に、忘れかけていた日本人が受け継いできた感性を感じてもらえるのではないか、と思っています。

 

 

 

東京にはない幸せ。復興の視点ではなく、会津の良さをいかに伝えるか。

震災後、会社全体の売上が一気に2割ほど落ちました。全社一丸となって一生懸命しておりますが、その後4年間、厳しい状況が続いています。

NODATE Mugシリーズ等、新しい挑戦をして市場を広げている事業はこの4年間で増加し続けていますが、会社全体で見ればまだ小さなポーションですので、もっと努力を続けなければなりません。

先に紹介したNODATE Chabuを含め、NODATE Mugシリーズを開発したことにより、お客さまの声がダイレクトに聞こえるようになったことは会社の宝です。市場のニーズを把握できる経験は、従来の製品ではなかなかありませんでした。またこの4年間でアウトドア業界に新しいニッチな市場を創出できたことはとても誇らしいことです。430年続いてきた会津塗のオーセンティックな手仕事コミュニティに継続的に仕事を頼めるようになってきていますが、地域の生産力にはまだまだ底力があります。もっとNODATEシリーズを売れるよう、生産体制の改革を進め、元気で楽しい街づくりに貢献できたらと思います。

13年前に会津に帰って来てから、コミュニティの重要性に少しづつ気付き始めてはいましたが、震災を通して確信に変わりました。東京で生活していた時は、何でも自分の実力で成否があるような錯覚がありました。勤務先と自宅があれば、隣に誰が住んでいようが関係ありません。どうお金を稼いで経済的な豊かさを自分が手に入れるかばかりに追われていたように思います。地方は面倒なことも多いのかもしれませんが、連綿と続くコミュニティがあって人と人が色濃く繋がっています。震災はそういうものを改めて意識付けさせてくれるものでした。

会津の田舎さが嫌で高卒で上京したはずが、今や逆に東京に出張に行くのが億劫になり、東京に行っても早く会津に帰りたい思いに駆られます。東京勤め時代は深夜残業が当たり前でしたが、数年間過ごすうちに価値観が変わり、四季の変化を感じながら自分らしく生きることの延長に仕事があり、その延長に経済がついてくればいい。そういうところが良い意味でも悪い意味でもローカルらしさ、人間らしさ、なのだと感じるようになりました。会津の人たちの所得は高くありませんが、金権主義とは違った視点での幸せなサイクルを作っているような気がします。高価な消費財を買うために失ってはいけないもの、それが地方には溢れているように感じます。

コミュニティが活きている土地には、外から来た時に、他所にはない楽しさがあります。浅草の三社祭が大好きなのですが、あそこには東京ではなく“江戸”が息づいて、行政から求められているのでもなく、若者からお年寄りまでがその土地から噴き出すかのように祭りを愛し、盛り上がり、楽しんでいます。だから見応えがあってそのパワーに他所の人も引き寄せられるのではないでしょうか。

まず地域の文化的な価値を礎に、結果として経済を動かすうねりが生み出されることが、これからの時代を地域が生き延びていく上でこれまで以上に重要な要素になってくると思います。上京する時は、「米大手ハンバーガーチェーン店もないような田舎から出て行きたい」と思っていたのが、今は「米大手コーヒーチェーン店がない街でよかった」と思ってしまっています。

会津を訪れる人には、会津に来たからこそ味わえる価値を感じ取って欲しい。それを会津塗の業界で働く立場の一人として、いかにお伝えできるかが大切です。弊社の製品はインターネットでも購入できますが、ただ売るだけではなく、ものを使って頂く先に、地域の魅力を伝え、製品が生まれた場所を訪ねたくなって会津に来てしまった、と繋がるような価値を伝えられなければならないと思っています。

今後の課題は、もっと元気な会社になって地域社会により大きく貢献すること。世界に出しても胸を張れるMade in Aizu, Japanの製品を地場の力で生み出して発信し続けたいです。NODATE Mugシリーズのようなローカルなフィロソフィの詰まった製品をもっともっと世の中に広め、よりスピーディに実績に繋げていきたいものです。

震災後、様々な復興サポート事業に助けられてきましたが、4年も経った今、製品力で実績を上げる努力を重ねています。

是非、会津にお越し下さり、会津塗の職人達の手仕事や地域の食、風土、文化を体感して欲しいと思います。

【参考】関 昌邦さんの関連サイト

   関美工堂

   facebook(関 昌邦さん)

   facebook(株式会社 関美工堂)

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