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大学2年生で海外起業した男が、震災後福島に戻って大堀相馬焼を継いだ理由。

代表取締役 松永武士
1988年福島県浪江町生まれ。明治43年創業の大堀相馬焼の窯元「松永窯」4代目として生まれる。大学進学にて上京。慶應義塾大学在学中に起業し、中国・香港・カンボジアにてヘルスケア関連事業を展開。しかし、震災によって途絶えつつある伝統的工芸品である「大堀相馬焼」の再生に貢献するために、海外での事業を譲渡し帰国。「大堀相馬焼」の企画・販売を手掛ける事業の本格展開を開始。One young world summit 2014 Japan Ambassadors、AERA2014年12月発売号「日本を突破する100人」に選出。

目次

・エピソード1 器の大きな男になろうと器を作る男

ご飯に粘土が入っていたことがトラウマになり、粘土嫌いだった子どもの頃。田舎コンプレックスから東京の大学に上京。大学2年で起業し、中国やカンボジアでビジネスをした後、震災を機に松永窯を継ぐまで。

・エピソード2 松永窯300年の重みを感じて

久しぶりに戻った福島。海外のビジネスとは違って家族経営だからこその問題を感じつつ、過去の人たちのため、未来の人たちのために、大堀相馬焼を繋いでいく重みを感じている。

・エピソード3 逆境の福島だからこそ、新しいアイディアが生まれる

震災後の逆境の中だからこそ、新しい販売方法が生まれ、江戸の焼き物を再現するプロジェクトも生まれた。

・エピソード4 4代目を支える父―3代目松永和生さん―

20歳から大堀相馬焼一筋だった3代目。震災後は初めてハローワークで仕事を探して働いた。息子が戻ったこともあり、松永窯再開へ。そして、息子への想い。

おまけ 大堀相馬焼の制作動画

相馬焼唯一の職人、根本清巳さん。自宅から100キロ以上もある松永窯まで通いながら、大堀相馬焼を支えている。

 

 

器の大きな男になろうと器を作る男

松永窯松永さん

18年間は浪江町で育ち、高校は南相馬でした。粘土は自分にとって当たり前で、小さい頃は触るのも嫌でした。ご飯の中に粘土が入っていたことがあり、「気持ち悪い!」とトラウマになってしまったことも原因でした。

親戚が一人東京にいて、時々東京に行く度に文化の違いを感じて、コンプレックスがありました。とにかく東京に上京したい思いで東京の大学へ進学しました。

しかし、そこで感じた事は、小さい頃から東京でお受験競争をしていた彼らには勝てないだろうということでした。また、その時彼女にも振られてしまい、器の大きな男になるにはどうしたら良いか考えて、大学2年生の時に海外に会社を作りました。

中国では医療の事業経営、カンボジアではマッサージの事業をしていました。専門的なことはせず、営業とマネージメントに徹していく中で仕事を覚えていきました。

そんな中で震災があって、家業や故郷の事を思った時に、日本の文化は人気があると海外で感じたことと、日本のものを伝えたいということがリンクして家業を継ぐことにしました。4代目として松永窯を継いだのですが、伝統工芸の構造的な問題、家族経営の問題、中小企業の問題と、色々な問題があることが分かり、一つ一つ乗り越えていきました。小売りの大変さも、実感しました。

海外の事業をする際は、市場を考えて、利益が出そうなビジネスをしていましたが、今は大堀相馬焼をするということが先に決まっていて、それで利益を出すために何をしていくかという、今までとは逆の考えです。より難易度は高いと感じますが、やりがいはあります。今までいかに楽をしていたか、市場から想像することが恵まれていたかを感じました。

昔は問題があってもお金で解決できましたが、福島ではお金で解決できることの方が少ないです。

 

 

松永窯300年の重みを感じて

大堀相馬焼の特徴である「青ひび」「走り駒」「二重焼」を凝縮した作品

 

福島に久しぶりに帰って来て、子どもの頃の視点と全然違うと感じています。浪江町の中でも僕の出身地は放射線量の多い地域でしたので、父親は一時帰宅で2時間まで帰れますが、僕は年齢が若いので帰れません。

全く別の土地(西郷村)でのスタートでしたので、土地がないのとあるのとでは違うと感じます。土地があれば地域の人が助けてくれるのですが、福島にいてもゼロからという感覚が強いです。

父親は、大堀相馬焼でこれから仕事をするのは大変だと心配してくれますが、僕はあと60年生きるだろうと考えた時に、残す側としての重みを感じています。

震災を経験することは確率的に低いことなので、出来事は受け入れて、他の地で起きた時のために松永窯が事例として参考になればと思っています。また、松永窯には300年の歴史がありますので、今まで続けてきた人たちのために残していきたいと思っています。もちろん、これから生きる人のためにも。それが文化になっていくと思いますし、文化保存が日本の他の地域にも役立つはずです。特に福島は全国から目を向けてもらっているのでチャンスだと感じています。

震災後、跡継ぎとして戻ってきたことで、地域の中小企業の問題点や家族経営の問題点も見えてきました。僕は別の仕事をしてきたこともあり、客観的に見ることができていますが、やる気のある跡継ぎが活かされていないという話を聞くこともあります。この問題が解決されれば、福島や地域の活性化になるのではないかと最近は考えています。

今後の課題としては、生産体制を整えることです。震災後は売れるか分からなかったのですが、今は売れる様になってきており、生産が追い付いていない状況です。

今は、職人さんが一人でいわき以外の全ての窯を回っている状況なので、長期的に見て職人さんを育てたいと思っています。短期的に見れば、即戦力として他の地域の焼き物の職人さんを雇用したり、パートでも良いので簡単な作業をしてくれる人を雇用したいと考えています。

 

 

逆境の福島だからこそ新しいアイデアが生まれる

各業界で活躍するクリエイターとのコラボ作品

 

震災後、福島県の消費力が落ちて、相馬焼が物産館で売れなくなってしまったので、今は東京で売っています。首都圏の方が工芸品の人気がありますので、結果として販売の範囲が広がりました。 

以前よりも価格は上がったのですが、相馬焼がなくなると皆思っていたので価値が上がり、価格に関係なく売れているのだと思います。

また、震災をきっかけとして、資料館に展示されていた200年前の江戸時代の焼き物を復活させようというプロジェクトも生まれました。焼き物を再現することで、今まで交流のなかった歴史資料館の人と、分析する人の交流が生まれ、全国に散らばっている作家さんとの縁もできました。作家さんは職人さんとは違い一点物を作るアーティストですが、全国に散らばっているため相馬焼が名乗れないという問題がありました。

そして、この様なプロジェクトを通じて源流に戻ることで、全国の福島から避難した人を勇気づけられると思っています。

 

 

4代目を支える父ー3代目松永和生さんー

松永窯 3代目 松永和生さん 昭和24年1月22日生まれ

 

20歳から今までずっと相馬焼の仕事をしています。当時は輸出が盛んで、作っても間に合わない状態でしたので、いい仕事かなと思いました。作るのは職人さんですが、焼きと絵付けは自分でもしていました。震災以前は、相馬市の観光帰りに購入する人が多く、相馬市から富岡インターの間にお土産屋があったので、団体の観光客が購入していました。 

実は、震災後は再開する気はありませんでした。焼き物は大変なので、もういいやという気持ちになってしまい、2〜3年はやる気もありませんでした。60歳を過ぎて、初めて履歴書を持ってハローワークに行きました。面接官は息子と同じくらいの年齢で、臨時で植木の剪定や草刈りをしていたのですが、なんとなく落ち着かない日々でした。こんなことをしていて良いのかなという気持ちがいつもありました。

その時息子が戻ってきたこともあり、二本松市にある共同窯(注:原発事故により避難を余儀なくされ産地での作陶ができなくなった、大堀相馬焼協同組合の窯元が共同で再開した窯)にも通っていましたが、経済産業省や県の補助もあり、自分の窯をまた持つことになりました。窯の準備にはお金がかかるので、補助がなかったら再建は難しかったと思います。

現在は、震災を機に取り上げられてもらえるようになり、生産が追い付いていない状況です。元々のお客様もいるので、他のお客様までカバーできない状況が心苦しく思っています。再興した窯は組合の中で8つ、それ以外でも2つありますが、1人の職人さんが組合のいわき以外の7つの地域の窯を担当しています。震災前は職人さんが5名ほどいましたが、高齢だったり他の地域に避難したりして、少なくなってしまいました。職人不足の問題の他には、材料の問題もあります。大堀相馬焼の独特の色は、浪江町の粘土を使うことで生み出されるのですが、浪江町の粘土を使う事ができないので、土を改良しながら作っています。

4代目(息子)に関しては、これから大変だろうなと思っています。松永窯を継いで欲しい気持ちもありますが、息子だからこそ生計を立てていけるのか、お嫁さんがもらえるかなど心配です。今の時代は何をしても大変だと思うのですけど。

―「震災後、3代目が松永窯を再建させられたのは、4代目の影響もあるのですか?」という質問に対して「それは絶対ない!」と断言しつつも、顔は嬉しそうであり、息子への愛情や息子を誇らく思っている様子を感じました。

 

 

おまけ 大堀相馬焼の制作様子

■職人 根本清巳さん

根本さんは、二本松市から松永窯のある西郷村まで、約100キロの道のりを通って仕事をしています。現在は、何か所もの窯を掛け持ちして制作しており、「働かなくては人間ダメになる」と言いながら、正月以降休まず働いているそうです。

大堀相馬焼の生産が追い付いていない状況では、いかに多くの製品を速く正確に作るかが大切です。あっという間に粘土から製品を生み出す手は魔法の様で、「俺の手は機械だから」という根本さんの言葉通り、正に機械の様に正確に製品を生み出していました。

 

参考リンク

福島浪江町 大堀相馬焼復興ファンド(はじめっぺふくしまファンド)

ふくしまはじめっぺ直売所

  

※はじめっぺ直売所では季節に応じて様々な福島県産品を販売しております。

 

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